竹に上下の節あり。けじめをつけながら人生を突きぬける。
松は、古い葉と新しい葉が、いつの間にか入れかわる。だから、いつもみどりしたたる色をしていて、
古い新しいという差別がない。人の心もいつも無事であるように教えてくれる。
竹には、上下の節があって、人生にけじめが大切なことを教えてくれる。そこには一本のしっかりとした幹が突きぬけていて、統一を保って乱れるところがない。
人生も、この松や竹のように、こだわりなく無心に生きたいものだ。
前後祭斷(ぜんごさいだん)
前もない後もない。いまこそが人生
昨日は昨日で絶対であり、今日は今日で絶対である。一瞬一瞬が絶対なのだ。前も後も、断絶している。連続はない。
一瞬の自己を現前していく。そのすばらしい一瞬の自己がつみかさなって、人生ができあがっていくのである。
いま、いる、この一瞬こそが、人生そのものであり。過去、現在、未来のとらわれなくいまを大切に過ごしましょう。
「挨」「拶」(あいさつ)
挨は積極的に近づくこと、拶は切り込んでいくことです。 相手に近づいて相手のことを知り、自分の様子も相手に知ってもらうことです。 毎日の挨拶が、人と人の間をなめらにして、自分の心にも元気や安らぎを与えてくれます。 こちらから積極的に挨拶をして、近づいて心を穏やかに人間関係を作っていきましょう。
把手共行(はしゅきょうこう)
手をとって、ともに行く。 家族でも親友でも、手をとりあえる人の存在が、あなたの心を強くします。 自分は孤独だと感じる人は、つらい時、苦しい時でも、主人公はいつもあなたのそばにいます。 周りの人たちが幸せに見えて、自分には何もないと思う時があっても、嘆く必要などありません。必ず寄り添ってくれる仲間がいる、 と実感するだけで心が温かくなります。 家族、親友を大切に助け合いながら歩んでいきましょう。
子曰く、君子は器ならず。
老先生の教え。 教養人は一技・一芸の人ではない。 大局を見ることのできる者である。
物事には全体の成り行きをみることが必ず必要である。
仏教でいう如意 小欲知足であり、これこそ幸福に至る妙薬といえましょう。
欲が少なく足ることを知る者は、こだわりがありませから、心に余裕が出て自ずと思いのままになれるというものです。
お坊さんの扱う法具に「如意」というものがありますが、これは人の心に如意を与えること、幸福を与えるための法具とも解釈できます。
毎日の生活が心に不満もなくとらわれないでありたいです。
質の高い仕事をするコツとは
遊とは仕事に夢中になることであり、 学とは勉強し自己の価値を向上させることであり、 働とは真剣に働いて企業や社会の利益に貢献することであります。 このバランスが大切なのです。
彼岸は、春分の日の前後7日間。「彼岸」は仏語で、目指すべき理想の境地を「あちら側の岸」に例えました。
対して、迷いと苦しみの世界である現世は、こちら側の意で 「此岸(しがん)」といいます。彼岸には、ぼたもちが作られ、春の彼岸は「牡丹餅」、春の彼岸は「御萩」と呼びます。
春、秋の彼岸には先祖のお墓前りに多くの方が見えられます。
「一華五葉を開く」 達磨大師が弟子の慧可に与えた言葉、 一つの花は五弁の花びらを開き、やがて果実となる。 花とは人間の心である。心の眼が開ければ、自然と悟りの境地に 導かれるという意味です。 「五葉」とは、五つの花びらのこと。悟りの階段を、一つ一つの花弁が開いていく順序にたとえて説明していることばであります。
(悪事は一時的に儲かることがあっても、やがてだめになる。)
運よく、時流に乗り、一時代の繁栄を謳歌しても、長い歴史の目から見れば、瞬時に散る徒花のように空しい限りである。
「君子は財を愛す。これを取るに道あり」とあります。つまり、立派な人物は財を尊重し、手に入れるにも道にそって行う、という禅の教えがあります。
企業は利益の追求に恥じることはないが、手段が人の道に反しないことが大事であります。 これば経営に基本である。