大応寺の歴史

西湘バイパス二宮インターを降りて秦野方面へ、旧県道を横切り、葛川を渡ると曹洞宗大応寺がある。正しくは妙見山盛唇庵という。新編相模風土記によれば、豆州加茂郡宮上村(中伊豆町)最勝院末、開山は覚林隣正大和尚(天文十八年寂・一五四九年)。

大応寺という名前のいわれは天文七年高遁斉道応(小田原城主)が、当所内蔵屋敷及び山林、田畑を寄付した。そのため、この人の法号大森道応居士の上と下の二字をとり、大応寺と改めたものである。

天正十九年(一五九二年)には十石朱の印を賜っている。その後、徳川時代にこの地を支配した萬年七郎右ヱ門高瀬が修造を加えた。よってこの人を中興開基としている。萬年氏は遠川の住人であったが、東照宮に仕え、相模の代官に任せられ、萬年堰,萬年堀を作って葛川の水を引き、勝負の前新田を開発した。萬年氏一族の墓は当時の墓地中央に整然と並んでいる。大応寺本堂

寺の本尊釈迦三尊は元禄2年(一六八九年)萬年佐左ヱ門宗頼が寄進したものと伝えられている。他に木造祖師坐像三躯、木造慈恵大師坐像、木造大神坐像がある。いずれも江戸時の作で寺宝として北条氏政の書翰(かん)など三通が保存されている。また、元禄三年銘のある梵鐘があったが、戦時中供出されてしまった。現在の鐘楼堂、梵鐘は昭和五十四年に再建されたものである。本堂は寛政2年(一七九〇年)に造営されたもので昭和三十七年の大改築でわら葺きを瓦葺きにし、面目を一新した。

現住職、水島正恭さんは二五代目で保育園長を兼任している。

当寺に相対して新県道の東の小山に造られている妙見神社は当寺の守護神であったといわれている。