随喜善(ずいきぜん)
人の喜びを、自分の喜びにする、という意味です。
上司からほめられたとする。それを見て、自分としては悔しい気持ちがないわけでないだろうけれど、一緒になって喜んであげる。 このように、他人の喜びを自分の喜びとすれば、怨念や嫉妬に苦しむことなく、毎日を笑顔で過ごすことができます。 どうかこれから忠臣蔵を観たり読んだりする機会がありましたら、赦すこと、人の喜びを我が事として喜ぶこと、随喜善という仏教の教えを思い出していただければと思います。
施恩は見返りを望まず、人に与えて後悔するな
一心に耕せば、根は深く張る。
修行を積んでいれば、人は自然に重んじてくれ、才能があれば、人はつき従うものである。
田畑でも、深く耕して浅く植えると植物はよく根を張る。自分のことばかり考えて、他人を損ねては、何の果報も得られない。
何事も一心に耕せば、自分自身が根を張り、成長していくことができる。
冬至とは、一年でもっとも昼が短く、夜が長いころのこと。これから日が伸びていくので、古代には冬至が一年のはじまりでした。柚子湯で体を温めて、かぜ知らずに。 初夏に白い花を咲かせ、秋に黄色い実がなる柚子。冬の鍋や焼き魚によく合うようです。
禅語「柔軟心」(にゅうなんしん)
心をやわらかくすると別のものが見える。
禅は、物事を一面的に見るのではなく、やわらかい心、しなやかな心をもって、 多面的に見ることを教えています。嫌いな人を見る心には見えなかったところも、 好き嫌いということを離れて、その人を見る心になったら、「こんな(いい)ところがあったんだ」という、 気づかなかった一面が映ることがあります。「あの人いやだとな。嫌いだ」と決めつけないで、しなやかな心をもって人と関わりましょう。
人間好事節「にんげんのこうじせつ」
春は花が咲き、夏は涼しい風が吹き、秋は美しい月が輝き、冬は雪が舞い降りる。
日本には美しい四季の移ろいがあります。一年中すばらしい時期であるにもかかわらず、 それに気づかないのは、我々の心がほかの雑多のことに迷わされているからである。
夏は暑い、冬は寒いと嫌なところばかりに目を向けていたら、せっかくのすばらしい 季節も楽しめないまま、あっという間に過ぎ去ってしまいます。
この四季折々を豊かな感性で味わい、毎日を楽しめるような気持ちで過ごしましょう。
明鏡止水(めいきょうしすい):すみわたった心は動じない。
人の心は、いつも晴れることばかりではない。過ぎ去ってみると、ほんの些細なことにこだわって、なぜ仲間を攻撃しつづけたのかわからないことがある。
そんな時、自分の行為はすべて自分がその責任を負うべきで他人の批判など問題にしないで、禅の心で「心を明鏡止水のごとく磨きすましておれば、どんな場合に出会っても大丈夫だ」と思い、動じないよう心得るできである。
竹に上下の節あり。けじめをつけながら人生を突きぬける。
松は、古い葉と新しい葉が、いつの間にか入れかわる。だから、いつもみどりしたたる色をしていて、
古い新しいという差別がない。人の心もいつも無事であるように教えてくれる。
竹には、上下の節があって、人生にけじめが大切なことを教えてくれる。そこには一本のしっかりとした幹が突きぬけていて、統一を保って乱れるところがない。
人生も、この松や竹のように、こだわりなく無心に生きたいものだ。
前後祭斷(ぜんごさいだん)
前もない後もない。いまこそが人生
昨日は昨日で絶対であり、今日は今日で絶対である。一瞬一瞬が絶対なのだ。前も後も、断絶している。連続はない。
一瞬の自己を現前していく。そのすばらしい一瞬の自己がつみかさなって、人生ができあがっていくのである。
いま、いる、この一瞬こそが、人生そのものであり。過去、現在、未来のとらわれなくいまを大切に過ごしましょう。
「挨」「拶」(あいさつ)
挨は積極的に近づくこと、拶は切り込んでいくことです。 相手に近づいて相手のことを知り、自分の様子も相手に知ってもらうことです。 毎日の挨拶が、人と人の間をなめらにして、自分の心にも元気や安らぎを与えてくれます。 こちらから積極的に挨拶をして、近づいて心を穏やかに人間関係を作っていきましょう。
把手共行(はしゅきょうこう)
手をとって、ともに行く。 家族でも親友でも、手をとりあえる人の存在が、あなたの心を強くします。 自分は孤独だと感じる人は、つらい時、苦しい時でも、主人公はいつもあなたのそばにいます。 周りの人たちが幸せに見えて、自分には何もないと思う時があっても、嘆く必要などありません。必ず寄り添ってくれる仲間がいる、 と実感するだけで心が温かくなります。 家族、親友を大切に助け合いながら歩んでいきましょう。