大応寺からのお話

2013年12月の教え

「立ち止まる練習」

師走。慌しい日々の生活を送っている方も多いことでしょう。

パソコンや携帯電話のなど、便利なものが増える一方で、それによりさらに忙しさが増すと感じることがあります。

技術の進歩は必ずしもゆとりを与えてくれるものではないようです。

立ち止まり静かに姿勢を調え、息を調えて坐禅をする。

「こころの深呼吸」する時間があれば、また世界が変わって見えるかもしれません。

忙しいからこそ、立ち止まる。

自分と向き合い、自分を感じる大切な時間を、是非味わってみてください。

2013年11月の教え

「心のキャッチボール」

人にとって大切で、必要なものは心のキャッチボールだ。
心が動けば、足(身体)が動き、フットワークが生まれる。
具体的に行動することで、心の守備範囲が広がっていき、どんどん人との付き合いも高まる。
出会いから様々な気づきや発見が生まれ、その結果、自分自身を成長させ、高めてくれる。

2013年10月の教え

「姿即心」すがた すなわち こころ

その人の姿はその人の心の中を現している。
心と神経や肉体はすべて相関関係にあり、自分の心の状態はすべて自分の姿となり現れる。
よって何事も心を律し、心の意識を高めなければその姿はおのずとだらしのないものになる。
常に人のスタートは「こころ」にある。
人は心の態度、心の意識を高めなくてはいけない。
意識を繰り返し積み重ねることで、無意識のレベルに心は高められていく。
心(意識)がしっかりしている人は、自然とその人の姿もしっかりしているものである。

2013年9月の教え

人の心、元より善悪なし、善悪縁に随ておこる。

間違いなくこのことは自分のためになると思っていても、人の言葉に動かされることがある。

善き指導者にしたがい、立派な人が長い間話していることを聞いているうちに、自然に心はよくなるのであります。
同心を一度、起こした人でも、同じことでも聞くたびみがきがかかり、ますます理解は深まります。

無論、同心がない人でも、一、二度聞いただけでは関心がわからなくても、何度も重ねると、霧の中を歩く人がいつぬれたのか気づかないうちに自然に衣服がしめるように、立派な人のことばを何回も聞いているうちに、自然と自分を恥ずかしく思う心も起こり、ほんとうの同心も起こるのである。

2013年8月の教え

人と共に養う

8月はお盆の月。多くの方が故郷に帰省し、ご先祖様のお墓にお参りをされます。
久しぶりに家族や親戚が集まり、近況などを語り合うひとときの場でもあります。
いつまでの残したい、日本の風景です。
お盆の風景の中心にあるのが、「供養」「供養」と聞くと、亡き人に対して、
一方的に、水やお花、お供え物をお供えし、手を合わせることをイメージします。
でも、振り返ってみてください。手を合わせていると亡き方があなたにしてくれた
ことが思い出されませんか? また、あなたの今の生き方を見直す機会になっていませんか?

2013年7月の教え

「仏道は人のためではなく、我が身のためなのだ」

ただ身心を仏法の中になげすてて、その上に、道を悟り法を得ることさえ望むことなく修行していくことが、よごれていない修行者というのである。
「仏のいるところにもとどまらない、仏のいないところもさっさと走りさる」ということが真の仏道である。

2013年6月の教え

人を尊敬するこころは人生の宝です

「志」とは、「こころに突き刺さる」という意味。

お金をいただくためとか、給料をいただくために、しかたなくやっているというのでは、人のこころを動かせません。
こころから人を尊敬すること、そこからしか人のこころは動きません。志とは、相手のこころに向かって、自分を一歩一歩進めていくことでもあります。

人を尊敬する、それは生きていくうえで、その人の「宝」となるものです。

木蓮

木蓮(もくれん)

三月下旬~四月にかけて、木蓮の咲く時期が訪れます。

空に向けて、てのひらを広げるように咲くさまが美しい花。

白い花を咲かせる白木蓮や、紫の花をつける紫木蓮があります。

2013年5月の教え

老子道徳経「其の光を和らげ、其の塵に同ず」

真の智者は、自分の知徳の光を和らげ隠して、すなわち自分の知徳をあまり誇ることなく、俗世間の中に混じり込んで、人びとに真理を教えていくとあります。

はじめから真理や学問じゃなどと刀を振りかざすと、人は自信を失い、躊躇して近づいてこなくなります。

人びとの目線と同じぐらいの身を低め、大衆と同じ見地に立ち、人びとが安心するような所から出発しなければならない。

観音様は三十三身を現じて衆生救済に邁進されたるのです。

2013年4月の教え

生かされている世界に徹底する。

魚の水を行くに、ゆけども水のきわまり、鳥そらをとぶに、とぶといえどもそらのきわなし。
しかあれども魚鳥、いまだむかしよりみずそらをはなれず。「正法眼蔵」「現成公安」

現代語訳
魚が水のなかを行くとき、いくら泳いでも水ははてしなく、鳥が空を飛ぶとき、いくら飛んでも
空に限りはありません。それでも、魚は水を離れず、鳥はいまだかつて空を出たことはありません。

つまり、魚や鳥は、水や空にありながら、水や空を究め尽くしている。人もまた同様です。
人はこの世界を、魚や鳥と同様に一瞬たりとも決して離れることはできません。
そうであるならば、人は、自分が生かされてある、いま直面している世界に徹底していくほかはありません。

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