老子道徳経「其の光を和らげ、其の塵に同ず」
真の智者は、自分の知徳の光を和らげ隠して、すなわち自分の知徳をあまり誇ることなく、俗世間の中に混じり込んで、人びとに真理を教えていくとあります。
はじめから真理や学問じゃなどと刀を振りかざすと、人は自信を失い、躊躇して近づいてこなくなります。
人びとの目線と同じぐらいの身を低め、大衆と同じ見地に立ち、人びとが安心するような所から出発しなければならない。
観音様は三十三身を現じて衆生救済に邁進されたるのです。
生かされている世界に徹底する。
魚の水を行くに、ゆけども水のきわまり、鳥そらをとぶに、とぶといえどもそらのきわなし。 しかあれども魚鳥、いまだむかしよりみずそらをはなれず。「正法眼蔵」「現成公安」
現代語訳 魚が水のなかを行くとき、いくら泳いでも水ははてしなく、鳥が空を飛ぶとき、いくら飛んでも 空に限りはありません。それでも、魚は水を離れず、鳥はいまだかつて空を出たことはありません。
つまり、魚や鳥は、水や空にありながら、水や空を究め尽くしている。人もまた同様です。 人はこの世界を、魚や鳥と同様に一瞬たりとも決して離れることはできません。 そうであるならば、人は、自分が生かされてある、いま直面している世界に徹底していくほかはありません。
随喜善(ずいきぜん)
人の喜びを、自分の喜びにする、という意味です。
上司からほめられたとする。それを見て、自分としては悔しい気持ちがないわけでないだろうけれど、一緒になって喜んであげる。 このように、他人の喜びを自分の喜びとすれば、怨念や嫉妬に苦しむことなく、毎日を笑顔で過ごすことができます。 どうかこれから忠臣蔵を観たり読んだりする機会がありましたら、赦すこと、人の喜びを我が事として喜ぶこと、随喜善という仏教の教えを思い出していただければと思います。
施恩は見返りを望まず、人に与えて後悔するな
一心に耕せば、根は深く張る。
修行を積んでいれば、人は自然に重んじてくれ、才能があれば、人はつき従うものである。
田畑でも、深く耕して浅く植えると植物はよく根を張る。自分のことばかり考えて、他人を損ねては、何の果報も得られない。
何事も一心に耕せば、自分自身が根を張り、成長していくことができる。
冬至とは、一年でもっとも昼が短く、夜が長いころのこと。これから日が伸びていくので、古代には冬至が一年のはじまりでした。柚子湯で体を温めて、かぜ知らずに。 初夏に白い花を咲かせ、秋に黄色い実がなる柚子。冬の鍋や焼き魚によく合うようです。
禅語「柔軟心」(にゅうなんしん)
心をやわらかくすると別のものが見える。
禅は、物事を一面的に見るのではなく、やわらかい心、しなやかな心をもって、 多面的に見ることを教えています。嫌いな人を見る心には見えなかったところも、 好き嫌いということを離れて、その人を見る心になったら、「こんな(いい)ところがあったんだ」という、 気づかなかった一面が映ることがあります。「あの人いやだとな。嫌いだ」と決めつけないで、しなやかな心をもって人と関わりましょう。
人間好事節「にんげんのこうじせつ」
春は花が咲き、夏は涼しい風が吹き、秋は美しい月が輝き、冬は雪が舞い降りる。
日本には美しい四季の移ろいがあります。一年中すばらしい時期であるにもかかわらず、 それに気づかないのは、我々の心がほかの雑多のことに迷わされているからである。
夏は暑い、冬は寒いと嫌なところばかりに目を向けていたら、せっかくのすばらしい 季節も楽しめないまま、あっという間に過ぎ去ってしまいます。
この四季折々を豊かな感性で味わい、毎日を楽しめるような気持ちで過ごしましょう。
明鏡止水(めいきょうしすい):すみわたった心は動じない。
人の心は、いつも晴れることばかりではない。過ぎ去ってみると、ほんの些細なことにこだわって、なぜ仲間を攻撃しつづけたのかわからないことがある。
そんな時、自分の行為はすべて自分がその責任を負うべきで他人の批判など問題にしないで、禅の心で「心を明鏡止水のごとく磨きすましておれば、どんな場合に出会っても大丈夫だ」と思い、動じないよう心得るできである。